性犯罪における"獣"と売買春における"悪"について

産経新聞に掲載された
曽野綾子氏のコラムが問題になっています。

「世の中には
"性衝動"を"抑えられない"
獣のような男が存在するのよ。
そんなふしだらな格好で
好きな時間に出歩いてたら、
売春女と間違えられて
一方的にリンチされても当然でしょ。
"だから"女は"獣"でない男に
文句を言わず黙ってかしづいて、
おとなしく保護されてなさい。
アラブみたいに保守的な国では
それが常識なのよ」

あまりにも酷すぎて
私はまだ全文読めてはないのですが
(具体的な被害者の存在する話が読めない、というのも一つの理由です)
要約するとこんな感じです。


犯罪、とくに性犯罪や詐欺の場合
被害に遭わされた人に対する
落ち度の追及は止まることを知りません。


特に今回取り上げている
曽野綾子氏の文章においては
性風俗に従事する人間は暴行されて当然」
という価値観がベースになっています。


これがコラムとして宗教新聞に
掲載されているというだけでも酷いのですが
実際に 性犯罪認知率が
イスラム教圏に次いで低い我が国では、
性行為の対価として金銭等の条件を
提示していた場合、
被害に遭わされても
暴行として訴えることは出来ませんし、
被害届を提出する時点で
却下される事も多いという現実があります。


昔は家庭内暴力も夫婦喧嘩として
一律に処理されていたそうですから、
「セックスに対する対価」の中に
「暴力に対する対価」が含まれているのは
当然のことだとされていたのでしょう。
その価値観に基づく制度が
売買春の関係において
いまだ根強く残っているのだと考えます。


そして、この価値観こそが
「男を欲情させる女は自粛しろ」
という言説を正当化する
基盤になっています。
「権利を掲げて、男から性行為の対価を取る女は悪だ」
という論理です。
「権利を要求する女は悪だ」
「悪だからこそ、制裁されるべきだ」
そしてそれをこじつけるために
「人間ではない、"獣"である性犯罪者」という存在が
信仰の悪魔偶像として共有され、
「"獣"に襲われたくなければ 人間の男に服従しなさい」と
女全体に予防拘禁の踏み絵として
提示されるのです。


そして、その踏み絵のために
被害者の落ち度は いつまでも探られ続けます。
「容疑者は"獣"ではなく人間である」と
関係者が認知する場合には、特にです。
「性犯罪者は"獣"である⇔"獣"でなければ性犯罪者ではない」
という偏見の裏返しが被害者への批難となり、
「加害者が"獣"でない以上、被害者に問題や嘘がある」
という結論を導いてしまうのです。


ですから私は曽野綾子氏や
彼に同調して妄想で自衛を騙る人達の
「自衛論」を名乗る予防拘禁論には
反対の立場ですし、
予防拘禁を受け入れない事を理由に
被害を被害として
認められない現状に反対します。


そして こういう主張をすれば
必ず出るであろう
「そんなんじゃ性被害者は同情して貰えないぞ」
という反論についても
「それは同情ではなく単なる支配欲求です」
という返答を行おうと思います。

余談ですが

今回の曽野綾子氏の主張する
「"獣"を欲情させた奴が悪い」
という論理は、そのまま
性暴力シミュレーション規制を
はじめとする様々な言論規制への
下敷きにもなっています。