ふたなりレズや女装男子ものは、男性版やおいなのかもしれない(21日加筆)

なんかもうこのカテゴリの話ばっかり続いていてブログタイトルが釣りみたいになっています。ごめんなさい。
自分にとって大切なプロセスだと思うので、読んでいる人(いるのかはわからないけど)にできるだけ棘が刺さら無いようには心がけつつも止まりません。


今回も其の手の嗜好をおもちの男性に対しては辛らつな内容となっておりますので、繊細な方はそっとブラウザバックでお戻りください。

女の子の好きなエロ - partygirlの日記

女は若くて、美貌で、華奢で、上品で、仕事は補佐的(楽)で
清純で、狙ってる男が他にいて、熱愛されてて
みかん、本日この袋に詰め放題で300円!とかで目の色変えて
詰める人いるじゃん?(おれおれ)
そんな感じなわけ。
どうせ妄想でタダだから、めいっぱい詰め込んじゃえ!って。
(中略)
男も大概、図々しいキャラ設定をするとは思うんだよね。
学園一の美少女で、成績優秀、お嬢様、奥手で清純、
今どき珍しい黒髪ロング、細いのに巨乳、すぐに快感おぼえる
人妻だったり、女教師、OL、アイドル、姫、女戦士、ナース…
なんであれ、美人なり、巨乳なり、貧乳…さまざまな自分好みの
造形を作り上げるんだけど…それって、女の容姿限定でないかと。
男は、自分を投影すべき男役を美化しない。
というか、さえない男であることが多い。
つまりは、現実の自分自身とかぶるような主人公にめくるめく
体験をさせたいのか?

私は間違えて読んでしまった女装男子モノやだいたいのあらすじをかじった作品くらいしか男性向け作品に触れたことは無いのですが、
少なくとも今(先方の記事は2005年のもの)の男性向け作品が、プレイヤー男性自身を投影すべき男役を美化していないかというと、そうではない気がします。


たとえ主人公がさえない男であっても、その冴えない部分を好まれたり、普段はさえなくてもいざという時にはかっこよくなったりと、
「普段は情けないと言われるけど実は特別な俺」という、スイーツ(笑)も真っ青な美化をしているのではないかと*1


これは先方で指摘されているように、女性が自分を投影したキャラクターに恋愛“させる”(三人称視点)スタイルをとるのに対し、
男性が主人公キャラクターを自分に置き換えて恋愛“する”(一人称視点)スタイルをとっているからなのだと思います*2


ただ、そんな男性向け作品にも例外があります。
それがふたなりレズや女装男子もの(私はひっくるめて男性向百合作品と呼んでいます。ちゃんと読んだことはありませんが)。
こういった作品に登場する女装主人公は、若くて、容姿端麗で、博識で、女の子に人気があって・・・と、
先述されている「妄想の詰め放題」が発生しています。

キャラクターに自分の投影を託し、第三者視点で楽しむ男性向百合

男性向百合作品だって、男性が主人公キャラクターを自分に置き換えて恋愛“する”(一人称視点)スタイルの延長線上じゃないのか、と思ってしまいそうになります。
しかし、それでは男性向百合作品の主人公キャラに女性声優があてがわれたり、
エロゲのプレイ画面やイベントCGに主人公の立ち絵があったり(男性向け作品ではほとんどないみたい、少なくともショタゲー(男性主人公×おとこの娘)作品にはありませんでした)
「○○(主人公)は俺の嫁」と公言する男性ファンがいたりする理由が説明できないのです。


↑の現象は、(男性向百合作品で)男性プレイヤーが自分を投影したキャラクターに恋愛“させる”(三人称視点)スタイルをとっているとしか考えられないんです。
すなわち、男性向百合作品というのは、男性版801なのではないかと。

男性向百合とボーイズラブの類似点

 百合色の夢 - 徒然庵日記

メンタリティは夢見る少女として「傷付けられる性」でありながら、セクシャリティ
傷つける性」でもある現実から逃れるために、身体も女性化しちゃいたい願望。
もう身体的にも「夢見る少女」になってしまいたい。同一化したい。
オタク的に言えば、萌えキャラクターとの同一化願望。*3

ここで男性向百合作品に対して言われていることと、

社会学では説明しきれない、やおいまたはボーイズラヴの謎。 - elegantly cruel. @ d.hatena

リアルでは受にしかなれない*4彼女たちが、仮想的 (virtual) に攻の視点に立つことで受を攻め、ようやく「ジェンダー的男性性」を経験することができる。彼女たちはイニシアティヴが欲しかったのだ:ペニスをもつ者のみに許されている「挿入する」権利――挿入する側が、恋愛においてより主体的であることを意味する――を長年求めつづけていた彼女たちの事実上の (virtual) 勝利、それがやおいである。
やおいとは、女性がremoteにペニス*5を獲得するプロセスである。彼女たちは、攻の男のペニスを借りて、遠隔的に受の男のアヌスを犯している。あるいは逆に、自らのヴァギナを受の男のアヌスに代理してもらうことによって、理想の攻の男のペニスに犯されることさえできる。1粒で2度おいしい、それがやおいである。

ここでBLについて述べられていることは、ほとんど同じ意味だと思います。


つまり、女性が性行為における主導権をBLの攻キャラ男性に求めたのに対して、
男性は夢見るヲトメ*6としての「女の子ライフ」の願望を男性向百合作品の主人公に求めたのではないか。

男性が放さない、男性の象徴としてのファルス

ただ、ここで見落としてはいけないのが、ふたなりであっても女装男子であっても、男性がペニスを放棄していない。
つまり自分自身が男性であることを放棄していない点です。

純粋なココロ: 『男性版やおい』が、今まさに誕生しつつあるのかも知れない

「女の子になりたい願望を充足させるためのレズ作品」が登場しないのはなぜだろう?と書きましたが、それに相当する「男性版やおい」的現象が、今まさに始まろうとしているのかも知れません。
「見られる性」を受け入れ、女性化する「脱非モテ」と、「自身が男性であること」自体を否定しようとする「男性版やおい

こちらでは、「男性版やおい」とは「自身が男性であること」自体を否定しようとするものだと説明されています。
ですが、少なくともセックスのときには男性器を求めている以上、「男性版やおい」が自身の男性性を否定することはないと思います。
むしろセックスの時以外は男性器を(持っているけど)自分からは見えないように隠している、と言ったほうが正しいのではないでしょうか。


前にこんなことを書きましたが、

エロマンガの過激な陰部描写から見える、ホモセックスな関係

女の感覚をわかりやすくするためにふたなりにしたり女装少年にしたりという話が出ましたが、むしろ逆なんじゃないか、同じ男に欲情するために女性的記号をまとわせているんじゃないか。受が女キャラであっても、単に外観を女性的記号で囲んだだけで実質は男性なんじゃないかと思いました。

男性向作品に出てくる恋愛に絡むキャラクター全てが「男性の本質に女の子の要素をかぶせたキャラクター」(=「身体的にも「夢見る少女」になってしまいたい。同一化したい。オタク的に言えば、萌えキャラクターとの同一化願望。」)なのだとすると、
やはり「「自身が男性であること」自体を否定しようとしている」というのは適当ではない。
むしろ、自身が男性であることをより強固に肯定しようとしているのではないでしょうか。


これを踏まえて、次に転載したエントリを読んで見て下さい。

「かわいいは正義」という絶望 - FULL MOON PRAYER

でも、僕たちは本当に男性である自分達を否定しながら、それでも萌え続けているのだろうか。むしろ、僕たちの本当の望みは彼女らの一人として、あの世界に侵入することではないのだろうか。そして僕たちはかしましにおいて、本当に侵入を果たした。はずむは少年から少女になることによって、少女たちの世界という楽園を手に入れたのである。そしてこの作品もまた、僕たちに熱狂的な支持を得るのである。
僕たちの望みは少女になることである。そして少女だけに許される、少女達の世界に住むことである。しかしこれは真実の少女達の世界ではない。「可愛い」という絶対倫理の中に築かれた、僕たちの妄想としてのユートピアである。要するに、未も蓋も無い話をすればこれは、単なる逃避の1パターンである。僕たちは僕たちの描いた少女達のユートピアに、少女化した自分を投影する。この捩れた妄想による逃避が実際に今僕たちの望んでいることなのだ。

再イオン化: 「かしまし」と男の子たちの生きにくさ

象徴的なのは、男の子だったときのはずむは、常に目が隠れて描かれることです。行動もはっきりしません。男の子の時のはずむは、「ほんとうの自分ではない」ことが、明に暗に示されるのですね。はずむは、女の子になることによって解放され、「ほんとうの自分」になるのです。そして女の子との恋愛も可能になるのです。
(中略)生きにくい男の子の内面には、「女の子になりたい」という気持ちがどこかにあるのだと思います。女の子になれば女の子と親しくおしゃべりすることができる。女の子になればおしゃれなどが気兼ねなくできる。女の子になればなにもしなくてもちやほやしてもらえる…。女の子になって生き生きしているはずむの姿には、そうした願望が投影されているように思えてなりません。そしてそれは、「男である」「男らしく振る舞うことを期待される」「男としてのライフコースを選択することを迫られる」男の子たちが抱えるであろう苦しさを反映しています。また、女の子と上手く接することができないために、女の子には縁がないだろうと絶望している男の子たちの気持ちも反映しているでしょう。普段は女の子にはまったく近づくことはできませんが、女の子になれば合法的に仲良くなることができるのです。なんという絶望!

「夢見る少女になりたい」「女の子になりたい」と願う男性が一番に思うことは、やはり多数のヘテロ男性と変わらず「かわいい女の子とお近づきになりたい」のようです。


男性としての自分に揺らぎを持つ(らしい)男性ファンは、自身の男性器を自分からは見えないようにし、更に自身に「女の子」を擬態させる(=男性の性役割から逃避する)ことによって、
「女の子から好まれる外見・性格になって→女の子と仲良くなる(当然恋愛や性行為も含む)」という、男として叶えたかった欲望を消費しているのだと思います。

百合を彷徨う乙女男子は自己を否定しているのか - 煩悩是道場

萌えとなる対象を「いいなあ」と眺めているような、そんな感じ。
で、その彼岸度が高いものの一つとして男性の百合萌えがあるのではないかと思うんですね。
つまり「手に入れられない、叶わない夢として萌えている」のではないか、と。
もう少し言えば叶わないと知っているからこそ安心して萌える事が出来るのではないでしょうか。
乙女男子にとって百合に萌える、という事は自らを否定する行為ではなく、自己を安定させるための装置として機能しているのではないか、というのが現時点での仮説です。

自分の気持ちにはあるけれど持っていない/抑圧されている権利や欲望をキャラクターに託すやおいのように、
男性もまた、男性としての自分の願望を百合作品に登場する女性/女装キャラクターに託すことで自分の気持ちを満たしている。まさしく男性版やおいと呼ぶに相応しいジャンルだと思います。


というわけで、最近流行っているらしい「女の子になりたい」というキャッチフレーズは、
突き詰めてみれば「(魅力的な)男でありたい」という願望に他ならないのでした。


ちょっとすっきり。

*1:この辺りのロジックについては自分を好きになってくれる人を好きになるんだ!という禅問答の矛盾。(11日加筆)でも書いています

*2:参照:社会学では説明しきれない、やおいまたはボーイズラヴの謎。 - elegantly cruel. @ d.hatena

*3:キャラクターの着ぐるみを所有し、実際に着ている人達はこの傾向なのかな?

*4:ペニスを膣に挿入するという物理的アーキテクチャは、恋愛において挿入する側がイニシアティヴを獲得するという言説にすくなからず寄与している。

*5:つまりそれは、セックスにおけるイニシアティヴを意味する。

*6:ヲタクが理想する乙女、つまり「ぼくの理想の女性像」の意。“ヲ”タク+オ“ト”コ+オト“メ”