自分を認めないものを攻撃する、ということ - アルフォンス・ハイデリヒになれなかった私

よいこのおおきなおともだちへ

あくまでこのブログの文章はふゆいちごの勝手な視点・思考をアウトプットしたものだけど、中には傷つく人もいると思うから、ヲトメ男子や女装男子などに該当すると思われる人はブラウザバックして記憶からこのブログの存在をしょうきょしてね!

第二次世界大戦以前、アドルフ・ヒトラーが台頭する前のドイツをモチーフにした『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』。
この作品に登場する秘密結社トゥーレ協会の会長デートリンデ・エッカルトは、大いなる力を求めて異世界シャンバラの扉を開くも、たどり着いたその異世界に恐怖を覚え、理想郷だと夢見ていたはずのシャンバラの世界を破壊しようとしてしまう。

    エド 「一つ質問がある、いきなり攻撃してどうする?」
エッカルト 「……」
    エド 「この世界のノウハウを、あっちの戦争に使うんじゃなかったのか」
(中略)
エッカルト 「……私は、この世界を破壊する」
    エド 「なんのために……」
エッカルト 「恐ろしいのだ」
    エド 「恐ろしい?」
エッカルト 「大いなる蛇の力で扉が開き、別の世界の存在を知ったとき、そしてそこに我々をしのぐ力があると知ったとき、私は怖くて怖くてたまらなくなった……そして滅ぼさなければならないと思ったのだ」
    エド 「ここのヤツらはお前たちに戦争を仕掛けたりしない」
エッカルト 「わかるものか」
    エド 「同じ人間だ」
エッカルト 「違う。姿形は同じでも、別の世界の、化物だ!」
    エド 「それが……お前の……本音か」


3年前にこの映画が公開されたとき、なぜエッカルトがシャンバラの世界を否定しようとしたのか、私には全くわからなかった。周りにもネットも含めてエッカルトについて特に語る人はいなかったのもあってか、特に気にもしていなかった。


だが、今ならわかる気がする。ナチス本部に所詮はオカルトだと蜂起から戦力外通告され、誰からも認めてもらえないと悲観したエッカルトがどういう気持ちだったのかを。
おそらくエッカルトは、「大いなる力」のあるシャンバラに住む人々ならば、「素晴らしい崇高な使命を持つあなたのために力になりましょう」と自分を肯定してくれるはずだと夢想していたのだと思う。


だが実際にシャンバラ(エドワード・エルリックがいた世界)に住む人々はエッカルトの望んだ都合のいい神々ではなく、エッカルトのことなど気にもかけずただ普通に自分達のために生きている人たちだった。

大いなる力に寵愛されることを夢見て、現実に絶望したエッカルト

私は前に僕を好きになってくれる人が好き、運命を待つ非モテ - 或るオタクの遠吠え-Over the Rainbow-という方のブログに対して、こんな解釈をしている。

自分を好きになってくれる人を好きになるんだ!という禅問答の矛盾。(11日加筆) - 恋するおとうとはせつなくて お兄ちゃんを想うとすぐ大好きな先生にナイショでおねだりしちゃうの♥

もし仮に「近づくなオーラ」を張っていない女性がいたとしても好きになってはいけない。なぜなら非モテは「今までオーラを張られてきたようなダメな自分がその女性と釣り合うわけがない」と信じきっているからである。「自分には性的魅力がまったくない」「彼女が自分を好きになるはずがない」。だとすれば非モテにとって好きになる事が許されている女性とは、「ダメな自分に好意を抱いてくれている女性」でしかありえない。ダメな部分も含めて承認してくれる女性でなくてないけないのである。

変更した太字部分。一見自己卑下に読めるけれど、ちゃんと文脈を追っていくと、ここでの「ダメな自分」というのは、「他人(女)からダメというレッテルを貼られてきた自分」だということがわかります。
ちょっと嫌味な言い方になるかもしれませんが、つまりこれって「本当は自分に価値があるのに、それがわからない女が自分をダメだと評価する」ってことですよね。
これをちょっと別の角度から書き直してみると「本当の自分の価値がわからない女は、自分のことをすき=評価する側になってはいけない」になります。
つまり一見「自分には恋愛する資格なんてないんだ」と卑下しているように見えながらも、実はあのエントリの文章は、他人(女性)の恋愛感情に対する非難だったんです。

作中のエッカルトも、これと同じ気持ちだったと思う。
ナチスに認められない自分(=トゥーレ協会)だけど、本当は素晴らしいんだ、きっとシャンバラの大いなる力は本当の自分をわかってくれる。手放しで自分のことを認めた上で、崇高な目的のために大いなる力で後押ししてくれるだろう。
きっとそんな風に夢想していたんじゃないだろうか。


だからエッカルトは、扉の向こうの世界に住んでいたエドや、同じく彼の父ヴァン・ホーエンハイムが、自分に賛同しなかったことに違和感と絶望を覚えたのだと思う。

普通ではなく、大いなる力でなければならない理由

話は変わるが、次の文章を読んだ時、私がなぜ一年前にこのブログを立ち上げたのかを思いだした。

はてな匿名ダイアリー > 二次元行きたい萌えプレさんより)

男オタの間では結構「ルイズは俺の嫁」「長門とチュッチュしたいよぉー」「ハルヒセクロスしたい」とか簡単に言えてそれが許容されるところがあるけど
女オタの間では「キャラと自分」的な妄想って凄く白い目で見られるのは何故なんだぜ?「キョンは私の婿」とかそういうのあんまり無いんだよな。ネタでさえも。寧ろ「キョンは古泉の嫁」みたいなのはあるけど。そういう801方面ではいくらでも変態的な妄想が許容されてるけど「キョンに抱かれたい」とかそういうのは「キモ」「漫画のキャラが好きとかwwwwwwww」って嘲笑対象になる
いやそりゃ、確かにキモいんだけどさ。でもそりゃお互い様じゃねーの?と思うんだけどね。
しかしなんだろうね、女オタ界では「漫画キャラと自分」的な妄想はネタであってもかなり忌み嫌われてるんだよ。何故なんだろ?801愛好者の方が多いってのはわかるが、だからといってそれ以外の者を忌み嫌う必要はないわけじゃん。

私はこのブログをはじめるずっと前から、別のところでピコ手だが腐゙活動をしていた。
BL自体はもちろんすきだったのだが、それとは別にこのブログで取り上げるような「男性キャラ×おとこの娘」作品もすきで、たまに絵茶なんかで萌え語りもしていた。


だが、どうも周りの萌えのポイントと、自分のツボは違う気がしていた。
私のスタンスが今と変わらず「受のおとこの娘の本質は女の子で、絶対に真のヒロインなんだよ!」というMMRもビックリのトンデモだったのに対して、周りの反応はあくまで「まぁ二次創作や妄想としてならそういうのも面白いよね」程度だったからだ。
私は当時から空気の読めない頑固者だったので、当然その話題になると話が噛みあわなくなるときがあって*1、当時の結論として「この話題は仲間内では共有するのは無理!」と思って男性向にやってきたのです。
(その間に松文館のオリジナルショタアンソロ→星逢ひろさんの作品→男性向アンソロ→男性向ショタゲー「ナイショのよりみち」と変遷していったのですが、詳しくは省略)


男性向なら、自分の萌えツボをきっとわかってくれる!と思ったのは、実際にショタアンソロの一部の作品やナイショのよりみちが(少々性表現にキツさを感じながらも)「年上×ヒロインキャラに♂だけをつけたような」作品だったから。
きっとこういう作品を好む男の人たちは、自分が夢想した通りの萌えトークを繰り広げているに違いない!

  ,j;;;;;j,. ---一、 `  ―--‐、_ l;;;;;;
 {;;;;;;ゝ T辷iフ i    f'辷jァ  !i;;;;;
  ヾ;;;ハ    ノ       .::!lリ;;r゙  
   `Z;i   〈.,_..,.      ノ;;;;;;;;>  そんなふうに考えていた時期が
   ,;ぇハ、 、_,.ー-、_',.    ,f゙: Y;;f     俺にもありました
   ~''戈ヽ   `二´    r'´:::. `! 


でも実際には、おとこの娘キャラを男だと断定したがる男の人は少なくないみたいだったし、ショタキャラに昔の可愛い自分自身を重ねる人もいたり、
女の子になりたい!だとか、女の子になりきって女の子とイチャイチャしたい(女装・性転換・フタナリ)百合作品なんかが男性オタの間でものすごい人気があること、
更には女装して調教されたいから女装男子視点でエロゲを出して欲しいという男の人がいたり、男性向でもちょっと一線を超えるとかなり直接的・グロテスクな表現をする作品があることなど、私にとって未知の嗜好が多多あることもわかってきた。
(このへんはエロマンガの過激な陰部描写から見える、ホモセックスな関係ふたなりレズや女装男子ものは、男性版やおいなのかもしれない(21日加筆)で述べています)


で、さっきのエッカルトの話に少しだけ戻るんだけど、あくまで求めていたのは自分の主張を後押ししてくれる「大いなる力」であって、普通に萌えている人々じゃなかった。
私はおとこの娘キャラは女の子として扱ってほしいと思っているけど、男の人の女装嗜好や願望を知りたいわけじゃないし、そもそも私は二次元のキャラクターになりたいわけじゃない。*2


別の世界に救いを求めたエッカルトや私にとって、普通に生きている人は自分の主張を肯定してくれる味方にならない、だから意味がないと思っている。
そういう自己中心的な思考があるからこそ、どこにもない「大いなる力」ばかりを求めて、普通の人たちからどんどん距離をとられて行くのだ。

普通に生きる人に対して抱く、とても大きな恐怖と破壊衝動

そして、そんな自己欺瞞と同時に、私やエッカルトは彼らの存在を直視してしまうことで大きな恐怖感を抱いてしまう。
もう一度、作中でのエッカルトの主張を見てほしい。

エッカルト 「……私は、この世界を破壊する」
    エド 「なんのために……」
エッカルト 「恐ろしいのだ」
    エド 「恐ろしい?」
エッカルト 「大いなる蛇の力で扉が開き、別の世界の存在を知ったとき、そしてそこに我々をしのぐ力があると知ったとき、私は怖くて怖くてたまらなくなった……そして滅ぼさなければならないと思ったのだ」
    エド 「ここのヤツらはお前たちに戦争を仕掛けたりしない」
エッカルト 「わかるものか」
    エド 「同じ人間だ」
エッカルト 「違う。姿形は同じでも、別の世界の、化物だ!」

「大いなる力」にならない普通の人に対して、なぜエッカルトはこんなにも恐怖を覚え、破壊しようと考えたのか。
私が一番不思議に思っていたのがここで、「自分の望んだものじゃないなら単に無いものとしていればいいのに、何で攻撃するんだろう?」とずっと思っていた。


でも、この「【コラム・ネタ・お知らせetc】 女装少年アンソロジー 募集します - アキバBlog」の記事を見たとき、はっきりとした恐怖と破壊衝動を感じてしまった。
ガンガンパワードには君と僕。という作品が連載されていて、ちょっと匂わす程度の幼なじみの王子×姫受萌えがあるんだけど。この企画の募集がまんま「女×女装男」作品で、もしかしてこのアンソロジー企画の波で、キミボクも女×女装男の方に梃入れされてしまったらどうしよう!と一瞬思ってしまったのだ。(おそらくありえないだろうとわかっているから、一瞬で済んだけど)
強い破壊衝動こそは起きなかったけど、侵略されてしまう!と思ったそのときの私が、件の記事に抱いてしまったのは間違いなく嫌悪だった。

自分と同じかもしれないからこそ「恐ろしい」

それと同時に、私が「男の人の可愛い」に対して否定的なのも、似たようなものを感じてしまうからではないかと思った。

http://anond.hatelabo.jp/20080826223910

そうそう、こういう風に「オタだけど、仕事も充実してるし化粧もファッションも楽しんでて女として終わってるなんてことは全然ないし人生楽しんでるよ」ってアピールしたがる女オタは何故か多いんよ。(別に厭味とか批判じゃなくて)
今思ったけど、過去に「オタク=リアルが辛いからリアルから漫画とかに逃げてる不細工&ブスwww」っていう非オタの攻撃があったから、それに対する反発みたいなものもあるのかなと思った。最近の腐女子漫画でも、やけに「私腐女子。でもちゃんとオシャレはしてるのよ」みたいなの多いんだよね。「オタだけど、女捨ててないわよ」っていう。別に、捨ててもいくね?オタ一直線、なりふり構わずオタってのもそれはそれでいくね?って思うんだけどねー……てかオタに限らず女子ってなんでもそういう感じな気がする。

上の文を読んで痛感したのだけど、やっぱり漫画の世界に逃げ込んでバランスをとっている自分はとても誇れるものじゃないし。そんな普通じゃないオタク内の中の更に普通じゃない自分の男性×おとこの娘萌えは、自分の遊び場であるこのブログ以外では恥ずかしくて口にも出せないと思う。
要するに私は、男性×おとこの娘萌えにコンプレックスを持っているのだ。
逃げ込むしかできない自分自身が大きらいなのだ。


だからこそ、同じように漫画や妄想の世界に逃げこんでいる(ように見える 参照)ヲトメ男子や女装する男の人に嫌悪感を抱いてしまうのだと思う。
最近までずっとヲトメ・女装男子アレルギーの文章を書きつづけてきたけど、結局のところ私は、勝手に彼らを媒介にして自分自身を非難してきたのだ。


鋼の話に戻るが、エッカルトもやはり自分自身のどこかに劣等感を抱いていたのではないだろうかと思う。そこがどこなのかはわからないが、おそらく(普通に暮らすシャンバラの人々ではなく)エドホーエンハイムに自分の嫌なところを見てしまったのだろう。
そしてソノコンプレックスを否定することにこだわるあまり「シャンバラに住む人もすべて同じような嫌悪の対象だ」と思い込んでしまった。そのために、破壊衝動が起きたのではないかと思う。

自分を認めてもらうために他の誰かを肯定する、アルフォンス・ハイデリヒになれなかった私

あの作品で、自分に自信を持たず、そのために他人を否定することで自分の心の平穏を保とうとしたエッカルト。そんなエッカルトと対照的なのが、エドの同居人のアルフォンス=ハイデリヒ(以下、ハイデリヒ)だった。
ハイデリヒも自分達を夢の世界の住人だというエドワードに認めてほしいと思っていたけど、決して誰かを攻撃することでそれを成し遂げようとはしなかった。


ハイデリヒはきっと、自分自身や自分のしていることに自信や信念を持っていたのだと思う。そして、人を見るときにはそこに映る自分ではなく、ちゃんと人そのものを見ていたのだと思う。
だから彼が本当に認めてほしいと思っていたのはエドワードだけでよかったのだ。


逆にエッカルトや私が認めてほしがっていたのは、ナチスやオタクコミュニティなどの他者ではなく、自分自身だった。
自分に自信を持てない私は、ほかでもない自分自身に自分を肯定されたくて、そのために他者に映った自分の嫌な部分を否定していたのだ。
だが結局、否定しても自分の嫌な部分というのは自分自身そのものなのだから、いつまでたっても自分が肯定されることはない。


去年11月に幼なじみはベッドヤクザ!とツイ☆てる〜こんなかわいい子が女の娘なわけないじゃないかADV〜を出してくれた脳内彼女さんとC:drive.さんのスタッフさま方は、おとこの娘ヒロインのゲームを出すために、何年もかけて女装男子ものがすきなユーザーが喜ぶ作品を出して「女装燃え」を浸透させていたと伝え聞いた。
少年嗜好などの漫画に関られた方々も似たようなものだと思う。


人に認めてもらうための努力もせず、自分の殻のなかに閉じこもった私が(ピコサイトとはいえ少しのアクセスがある)このブログで撒き散らした悪意。
その悪意を見てこのジャンルに冷めてしまったり、アンチになってしまった人がいないとは限らない。
ならば結果的に、私は尊敬する方の努力を冒涜し踏みにじったことに他ならない。


私はいつまで、自分の殻に閉じこもり続けているつもりなのだろう。


ということをここ何ヶ月かずっと考えていて、ちょうど鋼萌えがきたことなどもありモヤモヤを言葉で吐き出してみました。結局形になったのが夏休みが終わる時期というのはちょっと時間かかりすぎでしたけれど。
本当はこれからこのブログも含めてどうしよう、というところまでを考えたかったのですが、そっちはそっちでまた頭がこんがらがりそうなので、また別の機会に書こうと思います。

*1:主に当時の活動ジャンル萌え話の息抜き扱いだったので、あまり浮いてはいなかった・・・はず

*2:あるときから私がサイト経由でいただいたコメントやメールの返信に消極的になったり、キャラクター性をがらりと変えたりしたのは、こういったメールを少なからずいただいてしまったからだったりする(それと、当初は温泉で想定していて遊びのつもりだったのがイベントにも何回か一般参加しはじめて、いいかげん突っ込まれるとボロが出るなーと思い始めたのも大きかったりするけど)