終論:私の「おとこの娘ヒロイン」作品嗜好について。 1

数ヶ月の間つらつらと書き捨ててきたオタク論ですが、
けじめとして今回で一度締めたいと思います。

私の「おとこの娘ヒロイン」作品嗜好はやおいだった

なぜやおいではないと思っていたのか

私はたびたび、このブログで取り上げている「おとこの娘ヒロイン」作品について、
やおいとは違うとを主張してきました。


それはなぜかというと、私にとってのやおいはあくまで
「性別受けじゃない受」という属性の受に対する欲望を、自分の欲望の代弁者≒投影の対象である攻キャラに託すことで、
“自分で”自分をコントロールできるようにするためのものだからです。(性別受BLが正統(?)派から嫌われる理由 〜BLにヒロイン萌えは無いのか?〜)


また、受をコントロールできないorそもそもする必要がないくらい最初から受が女々しいと、逆にこちらが受にコントロールされてしまう気がして嫌な気分になります。


ですから、性別受である「おとこの娘」が受の物語を、やおいだと受け入れることはできないのです。
もちろん、この考えは今でも変わっていません。
ですが、それでもやはり、「おとこの娘ヒロイン作品」は私にとってのやおいだったのです。

なぜやおいだと思うようになったのか

きっかけは、下妻市シモンちゃんが一年ぶりに復活したという情報でした。


この情報を知った私の頭の中にまず浮かんだのは、中島みゆきさんの「地上の星」をバックに繰り広げられる、
下妻市関係者さんの壮絶なる戦いの日々でした。


予算や権利、スケジュールや上からの反発など様々な困難を乗り越え、
市役所の男たちが熱意を持って「シモンちゃん」という「おとこの娘ヒロイン」を世の中に送り出そうと奮戦する・・・!
そんな物語が、脳内で一瞬のうちに繰り広げられていました。


そこには男達の友情があります。(たぶん)
そこには男達の葛藤があります。(たぶん)
そこには男達のドラマがあります。(たぶん)


そう!つまり「シモンちゃん」そのものがやおいなのではなく、
シモンちゃん」を取り巻く男達のドラマ(空想上の)こそが、私にとってのやおいだったのです。

やおい」で読み解く私の男性向作品嗜好

↑のヒロインを媒介にしてのホモソーシャル萌えを適用すると、私がなぜ男性向も嗜好していたのか(過去形ですが・・・)がわかります。

  • ショタゲー関係→クリエイター×プレイヤー
  • ショタ漫画関係→作家×読者


このブログのレビューや情報提供などを通じて購買を誘い、実際に売れる(私の影響とは関係なく)ことで、
私は作者(攻)側に欲望を託すことができ、受である買い手を支配する(つもりになる)ことができるようになったのです。


新古で買う人を疎ましく思うのは、買い手が売り手の支配から逃れていることが見えてしまったからだと思います。


またヲトメ・女装男子アレルギーによって、すこしづつ男性向から興味が失せていった理由も、
売り手と買い手のカップリング構図から見えてきます。


前に××に萌えちゃいました!に見られる無視と見下しという文章を書いて、
人は自分より見下した者に対して「萌え」を使うのではないかと記述しました。


今回も萌えの対象となっているのは受、つまり買い手男性です。
また、私はやおいにおいての性別受が非常に苦手です。
そして、ヲトメ・女装男子アレルギーの矛先は、売り手ではなく買い手側に向けられてきました。*1


つまり、「おとこの娘ヒロイン作品」をめぐる売り手×買い手のやおい
あくまでちゃんとした男同士の関係であることが必要であり。
受である買い手男性に女装趣味やヲトメ趣味があっては、性別受の気持ち悪さを連想して(というか実質同じですね)しまうのです。


だから私は買い手のヲトメ趣向や受への同一化願望(女の子になりたい!など)を必死で否定しようとしました。
ただ、脳内で否定しようとしても現実には在るわけです。


最終的に私が行ったのは、男性向ジャンルから逃避するという選択でした。

終わりに代えて

全てではありませんが、私の「おとこの娘ヒロイン作品」嗜好、
特に男性向作品への情景はつまるところ「男性同士のホモソーシャル関係を支配したい」という願望だったと思います。


そしてヲトメ男子への嫌悪は、

  1. 作品自体を汚されたくない気持ちと、
  2. 性別受を連想したくない気持ちと、*2
  3. 上記のホモソーシャルな関係を壊されたくない気持ち

からでした。
1については、また次回に、もう少し考えて見たいと思っています。

*1:これは作り手側よりも買い手側の意見の方がネットでは目にしやすいこともあると思います

*2:これは逆かも。性別受がヲトメ男子を連想させてそう