マイノリティが語る理由と、メジャーな萌えオタが萌えを語る必要が無い理由

この間書いた性別受BLが正統(?)派から嫌われる理由 〜BLにヒロイン萌えは無いのか?〜が男性向のニュースサイトさんにリンクされていて、かなりびっくりしました。嫌な方の意味で。


感覚としては、前に書いた801ちゃんが気持ち悪い!に似ている気がします。
別に今までにも、書いてきたことに言及されたりとか、リンクされたりしたことはあったのですが、気持ち悪さを覚えたことはありませんでした。


で、考えてみたんですが。

「『萌え』の正体」(「國文学11月号」) - キリンが逆立ちしたピアス

↑を読んでみて、おそらく自分自身のBL観を書いてしまったからだな、と思いました。

本田さんは、本当にオタクだなあ、と心底思った。村瀬ひろみ「第三のジェンダー『萌える人』――『萌え』が拓く(かもしれない)未来」*2にもあるように、「萌え」と「オタク」はわけて考えることができる。(正確には、「できた」という過去形、かもしれない)岡田斗司夫に代表されるオタクは、一種のエリートだった。特定分野の知識が異様に豊富であることにプライドを持ち、仲間たちの中で激しい競争があった。私も、この定義であればオタクである。というか、「オタクを名乗っていいのか迷う」そして「心の中でオタクだと思っているが、遠慮して言えない」そんな葛藤を抱えるという、オールドオタクである。本田さんは、「萌え」とか「キャラ」とかを中心に論じる、ニューオタクだと思っていた。しかし、この文章を読む限り、(特定の)哲学だの映画だのに耽溺する、サブカル系オールドオタクであった。私は初めて本田さんに親近感を覚えてしまった。

この文章を一読して思ったのは、人はきっと外に発信せざるを得ないときになってはじめて語るんだろうなーということでした。



ただ単にメジャーなもので○○萌えーと消費するだけなら、きっと語る必要はないと思うんです。なぜなら仲間がいるから。
メジャーなものなら「○○が好きだー」というだけで、必ず同じものを嗜好する人が同調してくれます。
仲間が多ければ多いほど発言力は強くなる分、自分の嗜好に疑問を抱く必要は無くなります。たとえば異性愛指向が普通であるように。


逆に少数者の場合は、隠れたコミュニティにこもるか、問題提起などで反発するかしかありません。
恐らくやおいが基本的に隠れているのは、こういった少数者の事情と、その隠れたコミュニティ内でわかる人だけわかるものを共有していたからなんだと思います。(これは携帯小説や夢にも通じると思います)


私が先ほどショックを受けたのは、もともとは暗黙の了解で伝わる人にだけ伝えていたものを、理解し得ないであろう人にもわかるように書いているにもかかわらず、
それが本当に理解し得ないであろう人に読まれることを想定していなかったからだと思います。
自分のやおい観については元々書くつもりではいたのですが、ブログで公開するに当たって覚悟が足りなかった・・・というか、認識が足りなかったのだな、と思いました。


それとおそらく、私のBL観は自分の欲望の本質にかなり近いものなんだと思います。
「おとこの娘ヒロイン」作品について、男性に向けて語れていた(る)のは、きっとそれがオブラートに包まれていたりラッピングされたりしていて「実際には中身を見せていないもの」だからではないかと思います。

萌えを語る理由

逆に、私の「おとこの娘ヒロイン」萌えというのは、同じ好みの人が見つかりませんでした
そこで私が始めたのは、自分のこの欲望はいったい何なのか?という問いかけでした。


自分探し(笑)とでも言うのでしょうか。周囲の環境の中で、いったい自分がどの位置にいるのかわからない。
何も言わなくても通じる共感者が存在しない中では、気になって仕方がない。
だから他人との距離を測るために、語らざるを得ないのではないかと思うのです。