ある二次創作のオリジナリティが叩かれるのは、そこに「アタシ」が見えるから。

女子同人フィールドワーク「二次創作者の奇妙な嘲笑」 - Hopeless Homeless

二次創作者、ことに女性の二次創作に関わる者たちが、もっとも蔑視するのは「もうけ主義のぼったくり価格」でも「好きでもないのにイナゴとして流行ジャンルを渡り歩くこと」でも「テンプレの過激エロを首と名前だけすげ替えた作品」でも「下手くそ」でもなく、「メアリー・スーMary Sue)、ないし過剰なオリジナリティが丸出しの作品」である。
絵の、漫画の、文章の上手い下手は関係ない。
描かれた内容に「やけに有能で話の中心に存在するオリジナルキャラクター」や「テンプレートな設定以外の、過剰に設定の細かいパラレル世界」や「まるで原作キャラクターとは似ても似つかない解釈をされたキャラ」や「原作設定に対抗するようなリアルさ、緻密さを追求した考証」、そして「上記の要素を満たさないが『この物語は作者の実体験に基づいています』と宣言する脚注*1」が含まれている場合、その作家は「痛い」と後ろ指さされ、その作品は m9(^Д^)プギャー される。

これを読んで、
○○というだけで嫌われるひとはいない - E.L.H. Electric Lover Hinagiku
を思い出したので書いてみます。


私はBL方面では二次創作メインなんですが
(良く考えたら商業の方ってあんまり買ってないな)、
叩かれる「オリジナリティ」には、先方に書かれているような

m9(^Д^)プギャー された同人誌が、二次創作作品であることを忘れて評価するならば、これらは全て、「オリジナリティ」、純然たる創作力の表れとして、称賛されるべき事柄ばかりである。


生き生きと動くオリジナルのキャラクターが作れるか。
オリジナリティあふれる緻密で詳細な世界設定が作れるか。
テンプレート的理解をされがちな性質を独自の解釈で読み解けるか。
現実と齟齬のない、リアルな考証ができているか。
実体験に基づくリアルでプライベートな事柄を、作品として昇華できているか。


しかし、ことこれが二次創作の内部で行われたとき、長所は最悪の無様さに裏返る。
男性ジャンルには疎いので「二次創作全体が」とは言えないが、少なくとも、女子同人文化圏内では、これら二次創作内でのオリジナリティは「邪魔」で「不要」で「目障り」という評価を下される。

こういう特徴ってあんまり見受けられないと思うんです。


そう言った作品を読んでいる時に感じるのは
オリジナリティというよりはむしろ、
やおいルール以外の、別のテンプレートに組み込まれてしまっている感。



例えば夢小説。


原作のキャラがイケメン化(笑)されて、
舞台はたいてい学校で
ふわモテ愛されガールのオリジナルキャラが必ず出てきます。


そのファンタジーを共有する人たちにとっては、
その夢小説のテンプレは「ウチらのもの」として消費されるのだと思います。


でも、それを嗜好しない人は、
夢小説のファンタジーを「ウチらのもの」として感じることができない。
だからその嗜好しない人からすれば、
夢はとても身勝手に思える相手の「あたし」のファンタジーとして
受け止められてしまうのではないかと思います。



こう考えてみると、カップリング戦争というのも
カップリングが理解できないからではなくて
そこに「(自分の)あたし」の居場所がないから叩くのではないか?
と思います。



携帯小説をとりまく状況もそうですよね。
おそらくは携帯小説自体が「ウチらのもの」を共有することを
前提にしている気がしますし、
(二次創作とは逆に、(夢じゃない)携帯小説でリアルが求められるのは
 そのリアルファンタジーが「ウチらのもの」として
 共有できるからだと思います)


携帯小説自体を叩く人(読まない人ではなく)の中には、
そういった「ウチら」の共有から弾き出されたような気がして
「疎外感」を感じている人が多いのではないか?
そんな風に思います。



そして二次創作や圭太小説などの創作だけでなく、
普段の社会だって「ウチら」同士の暗黙のルールによって成り立っていますよね。

多分良くわかってない結論

1.その人の中にある「あたし」が
ある一定の人たちの暗黙のルールに適合する場合、
それは「ウチら」のものになる。


2.その人の「あたし」の中に、自分の「あたし」が見つからない場合、
それは身勝手な人の「あたし」が透けて見えるファンタジーになる。


3.「あたし」や他人の「ウチら」を叩く人というのは、
自分も含めて、きっとさみしい人なのだと思う。